宝寿寺の歴史

宝寿寺の由来と歴史

お大師様と宝寿寺の由来

宝寿寺は天平年間(729~748年)に聖武天皇の勅願を賜り、道慈律師によって伊予一国一ノ宮の鎮護国家の道場として、金剛宝寺と称して建立される。
道慈律師は、わが国はじめての官立寺院である奈良の大安寺を造営した天平時代を代表する高僧である。また、道慈律師の弟子である勤操大徳は、弘法大師が室戸岬で「口から明けの明星が体内に飛び込み、宇宙そのもの(大日如来)と一体になった」修行である虚空蔵求聞持法をお大師様に授けた師であった。


お大師様はその若き修行時代に四国の山野を駆け回り、石鎚山へ登って激しい修行をなされた。勤操大徳との出会い、室戸岬での「明けの明星」の体験はその集大成であり、その時、修行された道そのものが現在の四国八十八ヶ所霊場となった。

大同年間(806~810年)にお大師様が当寺に逗留なされ、光明皇后のお姿を写した十一面観音菩薩を刻み本尊と改めた。お大師様がそのように宝寿寺を定められた理由は、勤操大徳の師である道慈律師がこの地の祈りの場として建立なされた「金剛宝寺」を引き継がれたということであり、これが宝寿寺の由緒であると言うことができる。


またこの頃国司であった越智夫人が難産で苦しんでいたので弘法大師に祈念を頼み、大師が本尊に祈願した霊水・玉ノ井(現存しない)で加持したところ、夫人は玉のような男児を無事出産したことから安産の観音様としても信仰された。

宝寿寺の所在地と変遷

宝寿寺(金剛宝寺)は創建当時、石鎚山系を源流として燧灘へ注ぐ中山川の下流、白坪の里に位置していた。この白坪という地名は明るく開けた水田、また弘法大師の加持水、玉の井が由来ともいわれており宝寿寺の御詠歌には

さみだれの あとに出でたる玉の井は 白坪なるや 一宮かわ

と詠われている。中山川はこの地に豊かな恵みをもたらしたが、台風などの豪雨の時には暴れ川となり、宝寿寺も度重なる洪水の被害に見舞われた。平安時代末期の天養年間(1144年)には諸堂が修復され、その時に天養山と山号し、寺号は宝寿寺と改められた。


また、天正13年(1585年)豊臣秀吉の四国征伐にあたって、白坪の里は豊臣軍の上陸地点となったため、寺内は戦乱に巻きこまれ大きな被害を受けたと伝わっている。江戸時代初期、寛永13年(1636年)に小松藩初代藩主である一柳直盛公より、水害の及ばない新屋敷、居屋敷の地に一宮神社と共に移転を命ぜられ、延宝7年(1679年)に諸堂の移築が完了したとの記録がある。

この時の移転地の新屋敷、居屋敷とは現在の一之宮神社がある場所である。現在の宝寿寺は元の場所から500メートルほど離れたところに移転している。詳細は後述。

当時、宝寿寺には御本尊十一面観音をはじめ多くの観音像を祀っていたため観音院とも称しており、小松藩3代藩主頼徳公よりその扁額奉納に接している。

神仏分離と現在地への移転

宝寿寺は古来より一国一宮(いっこくいちのみや)宝寿寺として神仏習合、一之宮神社と共に祀られてきた。明治の神仏分離の折、明治3年(1870年)には寺領を没収され、本尊十一面観音をはじめとした仏像と納経印は廃仏の難を逃れた香園寺に預けられ、住職は一之宮神社の神主として役替えを余儀なくされた。これに心を痛めた村民、信徒たちは廃寺から時を置かず、復興を願い出たようである。その熱意が通じて、明治7年には小豆島池田村、長勝寺より宝寿寺中興、大石龍遍上人を迎え明治11年(1878年)7月17日に再興を許された。
これには龍遍上人による全国行脚、勧進が大きな力となった。


しかし、7年に及ぶ廃寺期間による堂宇の荒廃は相当なものであった。殊に当時の本堂は享保2年落慶のもので、築造より150年の年月を経た草葺堂でかなりの老朽化が見て取れた。これらの整備が完了するのは、龍遍上人の遷化後、同じく長勝寺より迎えた上人の弟子、再興2代・大奥徳雄師を、香川県仲多度郡多度津町の名刹多聞院より迎えた3代・宮地龍雄師を迎えて、明治45年(1912年)になる。この間、日清日露戦争があったため再興に約30年を有した。この頃の境内の様子は県庁宛の諸願書に添付された図によると、本堂、大師堂、鐘楼堂、庚申堂、茶堂、庫裏、山門があったとされる。

大正時代に入り、国鉄予讃線がこの地にも開通することとなり、小松駅が境内の南側に設置されることとなった。これでは参拝者が踏切を越えてお参りしなくてはいけなくなり危険であるため、現在の場所へ移転する運びとなった。4代・渡部自到師のもと、大正10年(1921年)の小松駅設置とともに境内地の移転。同13年に本堂落慶。山門の新築。その後、大師堂が火災に遭うも平岡たつの大寄進により間もなく再築され移転が完了した。

このように宝寿寺は幾多の災害や苦難に見舞われながらも何度も復興し、現在では国道11号線に面し、JR伊予小松駅から徒歩1分の位置にあって、毎年多くのお遍路さん、参拝者が訪れ賑わいをみせている。

明治以降の再興に尽力した檀信徒ら

真鍋庄平、近藤権作(近藤桝太、源太郎の先祖)、久松忠平(久松新一の先祖)、徳増又作(徳増峰太郎、茂八の先祖)、髙井丑之助(髙井義一、丈平の先祖)、近藤円太郎、久松百太郎、真鍋弥八、真鍋儀七、真鍋坂太郎、矢野竹一、日野一太郎、首藤松蔵。大師堂寄進、平岡たつ。山門寄進、伊藤和四五郎。他、多数。

【参考資料】小松史談40号、41号、42号

四国八十八ヶ所霊場 第六十二番札所

天養山 宝寿寺

住所
〒799-1101
愛媛県西条市小松新屋敷甲 428番地
電話
0898-35-5262
納経受付時間
午前8時~午後5時

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